北のりゆき・遊撃インターネット雑記

北のりゆきと遊撃インターネットのブログ。連絡はメールでお願いします yuugeki-internet(a)garnet.dti.ne.jp ((a)を@に変えて下さい)

須藤凜々花『人生を危険にさらせ!』批判①エセアイドルのペテン哲学(アマゾンレビューより)

 Amazonで購入
 2017年AKB選抜総選挙の発表会場で「結婚する」と爆弾発言をし、一躍時の人となった須藤凜々花(りりぽん)。
アイドルオタク以外には理解しがたいかもしれないが、頻繁に男性宅にお泊まりしていることを週刊誌にスクープされて開き直ったこの行為は、教会財産の横領が発覚した修道女がクリスマスのミサの最中に聖母像を蹴り倒し「処女がガキを産むわけないだろ!」と放言するに等しい。虚像であるとしても、アイドルとは無条件で信頼されるべき『偶像』だからだ。その幻想を満たす事が、職業としてアイドルを選んだ須藤に求められた義務であった。

 AKB選抜総選挙での須藤の得票数は、3万1779票。評者の試算では一票約八百円になるので、二千五百万円以上が投じられた。一人三票投票したとすると、一万人が二千五百円ずつ投じたことになる。五十万円くらい投票したファンなら、それこそゴロゴロいる。全て無償の行為だ。握手会の行列で子供連れや結婚間近のカップルを見た。このような人たちも投票しただろう。須藤は、彼らの信頼と善意を裏切り、『結婚宣言』で開き直った。さらに、いろいろな意味で笑えるのだが、須藤は自らを『処女』であると公言していたことも付記しておこう。
 「たすけてくれ」という悲鳴がネットを覆い、「自殺します」というツイートや確認するすべはないが電車に飛び込もうとして駅員に取り押さえられた人を見たという書き込みもあった。不眠や何を信じてよいか分からなくなるといった神経症的な精神状態に陥った人は、千人単位でいるはずだ。

 この本の中には他者との関係性が、ほとんど出てこない。行動が自分のモノであるかへのこだわりばかりだ。ここに書かれている「プロのアイドルだから恋愛はできない」「哲学者を目指してるから嘘はつけない」という須藤の言葉は、全くの嘘であった。バレないようにマスクやサングラスのたぐいで顔を隠して男の元に通い、何も知らないファンから大金を巻き上げるという自らの行動をもって自著を完全に否定したわけだ。須藤の中で思考が整理できているのだろうか? 無理だろう。どこかで必ず矛盾が生じる。
 『結婚宣言』のスピーチでの「初めて人を愛することを知りました」という須藤の言葉。これで何かを理解したつもりになった時点で、哲学を志す者として終わりではないか。なぜ、その感情を疑い、切開し、考察することをしないのか? 「自分に正直に」という台詞が須藤のお気に入りである。それを突き詰めれば、刺激に反応して右往左往する虫けら同然の存在にまで人格を堕としめる事になるではないか。須藤は、哲学以前に人間とは社会性を有する存在であるという常識すらわきまえていない。人間とはポリス的存在であるという2400年前の哲学すら理解できていないのだ。このことを彼女の現実の行動が如実に証明している。

 共著者である堀内進之介は、ツイッター上で須藤を『戦うアイドル』などと持ち上げ賛美していた。保身のためとはいえ、多くの人を本気で自殺を考えるまで追い込んだ行為に対して、いかにも心ない言葉だ。
 『感情で釣られる人々』いう本を出版している堀内が、どのような対応をとるかが見物だった。誤りを認め正すことができるかどうかで学者としての資質が試される。堀内は、須藤を飾り立て賛美するという道を選んだ。「(須藤は)必ず哲学者になれる」とまでのたまわったのには、驚愕した。我欲のために自分を応援してくれていた万余の人々を騙した挙げ句に、嘘がバレると結婚という『制度』に逃げ込み、記者会見では常に「事務所と相談して決めます」と発言して権力にすがりつく須藤のような者が哲学者などになれるはずもない事は明らかだ。堀内の学者・教育者としての良心と資質は大いに問われるべきである。

 評者はAKB握手会に二年以上通って何度も須藤と対面し、短時間だが話しをした。ファンではあったが、彼女につまらない小さなウソをつかれたことがきっかけで、何か奇妙な違和感を感じていたのだ。あらかじめ須藤の性質を引き出すことができるような会話を工夫するなどして握手会に臨んだ。
 結論からいえば、須藤は極めて演技的な性格の持ち主である。また強い攻撃性を有している。スキャンダルを暴くことを予告されて追いつめられ、「どうすれば一層目立って失地回復できるか」という演技性と「このままただでやられてたまるか」という攻撃性の二つが結びついてしでかしたのが『結婚宣言』騒動であろう。前日に週刊誌から男性関係公表の通告があり、なんとか今まで大勢のファンを騙してきた事を正当化しようとした苦しまぎれの可能性が高い。『哲学的』な意味などは、クスリにしたくてもあるまい。彼女の性格の持つ強い演技性と攻撃性は、おそらく幼児期の経験による自尊心の欠如から発するのであろうが、これ以上はアマゾンレビューの範囲を越えるので 触れない。
 (追記)
 2018年1月29日、ネットテレビにおいて須藤は下記の発言をした。
 「小さい頃にお母さんの喘ぎ声を聞いて喘ぎ声アレルギーになったんです」「女の人の喘ぎ声が本当にイヤで、振動も伝わってきて。小・中学生の時だったんですけど、本当にイヤだって思ってたんですけど(- 略 -)」
 小学校低学年の時に須藤の両親は離婚している(須藤は死別と述べているが、嘘である)。特に母親の性行為を見せられることは、脳の発育が阻害され委縮するほどの重大な虐待である。須藤の特異な性格は、幼児期と思春期にかけて虐待されたと同時に、スナックのママの娘として客たちに甘やされて育ったことにより形成させられたものであろう。須藤の母がママをしていたスナックは、須藤の実家から歩いていける距離にある。そこに幼児期から出入りしていたということだ。
 なお共著者の堀内は、ツイッターにおいて『この話を聞いて、そこにいた編集者とマネージャーたちと、「ママー!」って一緒に叫んだ記憶がある(^^) 』などと述べている。非常勤とはいえ一応は大学の講師であり政治社会学者と自称するこの男の感想は『  (^^)  』 なのである。堀内の想像力の欠如には、唖然とした。その事を指摘されるとあわてて当該のツイートを削除するという醜態は、自己の発言に責任を負わないという『学者』として不適な堀内の姿をさらしているように思える。
 虐待の事実を須藤凜々花本人が公表したため、参考までに記す。
 (追記・終)
 少しでも 須藤と会話をすれば分かることだが、この人物は非常に頭の回転が速い。評者と比較した推測だが、おそらく知能指数は140を超えるだろう。二度目に握手に行った時に既に評者の顔を覚えていた記憶力も大したものだ。なによりも凄まじいまでの『努力をすることができる』という才能は、素晴らしいものがあった。
 ところが須藤の『学』の水準は想像以上に低いものであった。たしかに最近の有名どころの哲学書はそれなりに読んでいるようだ。ところが知識がいびつなのだ。基盤になるべき社会科学系の教養は、ほぼ無い。岩波文庫の青版などはほとんど、あるいは全く読んでいないだろう。また、主流で有名どころの哲学者の著作はそれなりに読んでいるようだが、傍流とされる哲学者や評論家の知識は、聞いた限りでは皆無だった。17歳から20歳という人生で最も学ばねばならない時期にAKB(NMB)で懸命に働いていたのだから、知識や教養の不足はやむ得ないと言える。しかし、哲学者を目指すと公言しているにもかかわらず、『先端』をなぞるばかりで、『基盤』を固める努力をしているようには感じられなかった。大学受験レベルの学力があるかどうかもあやしく、『学』を志す本来の意味での『学生』であるならば持たなければならないはずの基礎教養がきれいに欠落していた。筆者には須藤の『哲学』とは、有名な本からなにか気の利いた言葉をつまみ食いし、テレビのバラエティー番組などで『芸』としてそれを投げつけて利用する言葉の武器にすぎないように思える。

 実存主義について語りながら、E・ホッファーやC・ウィルソンの存在すら知らなかった。ニーチェフロイトに対する傾倒を語りながら、『罪と罰』以外のドストエフスキー作品を読んでいない事に驚かされた。これではフロイトの主著のひとつである『ドストエフスキーと父親殺し』など、存在すら知らないのではなかろうか。ニーチェをやるのならばさすがに読んでおかなければと、ニーチェドストエフスキーの関係を評者なりに解説した手紙を添えて『悪霊』を贈ったが、どうやら読まずに捨てたようだ。哲『学者』になりたいというが、国立国会図書館が20歳以上からしか入館できないことも知らなかった(現在は18歳以上から)。早稲田に古本街があることも知らず、そもそも「古本は嫌い」なのだそうだ。古本が嫌いな哲学者とは!

 須藤が優れた知能の持ち主であることは、断言できる。科目数の多い国立大学は難しいにしても、一年もしっかり勉強すれば早慶上智くらいならば合格するだろう。しかし、この本を出版した時点での須藤の知的水準はこのようなところにあった。そして現在21歳の須藤は、知性と特に品性という点で本書を執筆した18歳の時よりも大きく後退したように思える。
 須藤凜々花AKB48(NMB48)に入るきっかけとなったドラフト会議というイベントで、母親がインタビューに「哲学は・・ちょっとよくわからない」と言葉を濁して答えている。その時点で須藤家には哲学関係の書籍は一冊もなかったようだ。須藤の哲学とは、アイドルのキャラづけにすぎないのではないかと評者は疑っている。
 これは真面目に受け取ってはいけない本だ。

(2017年7月27日 追記)
共作者の堀内進之介に関して、下のご意見をいただきました。貴重な情報だと思いますので、要旨を転載させていただきます。堀内本人に「事実誤認があるなら訂正するので連絡してほしい」と同文を送りましたが、12月2日現在返信はありません。
----ここから----
(-略-)論文リポジトリで堀内氏の執筆論文につき、検索をかけてみました。
wikiでは共著などが記載されていますが、単著論文としてリポジトリで確認した限りでは、氏が所属する研究科の紀要論文が中心で、それも2011年が最終です。学会レベルでの論文は(当方の見落としがなければ)見当たりません。一応2017年に執筆している著作が上がっておりますが、文藝春秋specialに書いたようなものを研究者の論文と考えるのもおかしいので、これを省いておきます。
純粋な学術論文に関してはリポジトリで見た限り(とエクスキューズしておきますが)現代に生きる研究者の生命線ともいえる生産性が極めて低い。
この状況で「政治社会学者」を自称されているのも興味深いのですが、その肩書でなぜ「哲学」を形ばかりとは言え標榜する本の出版の片棒を担いだのか。皮肉な意味でこれまた興味深いところです。
  (-略-)
あと気になるのは(一世代前の大学院ならともかく)、博士後期課程で単位取得退学、つまりきちんと過程内に博論(博士論文)を書き切っていないということ。wikiがソースなので信憑性はわからないところではありますが、学部は明治学院のようです。これが正しいとすれば(いわゆる)学歴ロンダ組であるのでしょう。それにしても、研究能力としては疑問符を付けざるをえないところではあります。また海外の一流大学での正規留学なども経歴を見る限りはありませんね。
この手の、アカデミズムでは定職に就けないがゆえにずるずるとメディア仕事や講師仕事などをこなして生計を立てているような方は正直「掃いて捨てるほど」おられます。
大学院の過程内で博論を書き切れず満期退学後に3年もテニュアポストに採用されないレベルの人物を過大評価する必要はありませんし、そもそも評価の俎上に載せる意味もないと思われます。
  (-略-)
----ここまで----
今回の騒動に関わる須藤凜々花論を書きました。堀内に送ったところ、「人格批判は許されない」「訴えられても仕方がない」などという恫喝じみた笑止な返信が来た。こんなシロモノの共作者となり須藤の名を上げることで結果として多くの人を騙し苦しめた行為に加担していながら、いったいどのような神経をしているのであろうか?
(2017年12月2日 追記)
ツイッター上で、『(評者は)異常者であるので構ってはいけない』という旨の堀内進之介によるツイートを見つけました。どういう事か問いただすツイートを送ると、書いたものを評者がみることができないようにする『ブロック』を行い、その後返信はありません。ツイッター利用者の間では、このような行為を『逃亡』と呼ぶそうです。「人格批判は許されない」などとクサしたにもかかわらず批判者を『異常者』と決めつけるなど、堀内の『人格』は、あまり学問にふさわしいとは言えないようです。
こちらもぜひ読んで下さい
須藤凜々花は、なぜあの時『結婚宣言』したのか。AKBの闇